吉田拓郎が友達の葬式に行かない訳。聞いたあなたは涙が止まらない…

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吉田拓郎さんといえば、「落葉」「人間なんて」「旅の宿」の数多くのヒット曲を持ち、今話題のTHE ALFEEやジャニーズのKinKi Kidsとも仲が良いことで有名な「フォーク界の神様」ですよね。

そんな、吉田拓郎さんが友達の葬式には行かないと発言したことが話題となっている。
深く聞いていくと涙なしでは語れない吉田拓郎さんなりの美学が詰まっていました。

今回は、吉田拓郎さんが友達の葬式に行かないといった訳について迫ります。

吉田拓郎さんの友とは

吉田拓郎(74才)が11月3日、中国地方の文化の向上に大きく貢献した中国地方ゆかりの個人、団体に贈られる「第77回中国文化賞」を受賞した。
その際、吉田は青春を過ごした広島に思いを馳せるエッセーを、冒頭の書き出しで地元紙に寄稿した。その中で吉田は、メジャーデビュー前に結成していたバンド「ザ・ダウンタウンズ」のメンバーとある約束をしたことを明かした。

《昨年の秋、広島で何十年ぶりに4人で再会し夕食を共にした 「今後お互いの葬式には行かない」という事を確認した。「今夜が最後の夜になるかもね」と話した。》

引用元:YAHOO!ニュース

吉田拓郎さんは、故郷の広島県でメジャーデビュー前に結成していた「ザ・ダウンタウンズ」のメンバーとお互いに「お互いの葬式には行かない」ということを確認したそうですね。

この「ザ・ダウンタウンズ」は、吉田拓郎さんが広島商科大学(現:広島修道大学)時代に吉田拓郎さんの仲間とともに結成した4人組バンドだった。

メンバーと担当は次の通り

  • ギター と ボーカル:吉田拓郎
  • ベース:中学時代の同級生の銀行員
  • ギター:”広島商業開校以来の天才”と言われた広島大生
  • ドラム:1歳年下の自動車会社社員

バンドは広島では随一の知名度を誇るようになって、実力も誰にも負けなかったそうだ。
そして、女性ファンにもモテたそうだ。

吉田拓郎さんのバンド解散の経緯

嬬恋野外コンサートで歌う吉田拓郎

吉田たちは若く、怖いもの知らずだった。演奏会場は楽器ショップのほかに、ビアガーデンやディスコクラブ。岩国の米軍キャンプでも米兵を相手にライブを行い、ビートルズやレイ・チャールズなどのカバー曲でうならせた。


ザ・ダウンタウンズは1967年、ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト中国地区大会に出場して優勝。しかし、岩国キャンプで演奏していたことが“侵略基地の慰問”だと批判され、全国大会出場の辞退に追い込まれた。


悔しかった。だけど、その思いをどこにぶつければいいのかわからず、メンバーは酒を飲みながら涙した。“売国奴”といわれのない批判も浴びた。仲間同士、殴り合いのけんかもした。だが、彼らを支えたのは「広島で音楽を奏でる誇り」だった。


翌1968年の大会。中国地区では再び1位になり、今度こそ全国大会へ。しかし、4位という結果に終わる。吉田が22才の秋だった。メンバーは目標を失い、活動は次第に減少していった。1969年、メンバーの結婚や就職を機に自然消滅。解散コンサートもなかった

引用元:YAHOO!ニュース

吉田拓郎さんのバンド「ザ・ダウンタウンズ」は、当時の日本の世間の声もみ消されてしまったと言わざる負えない結果だった。

その結果「ザ・ダウンタウンズ」は自然解散となったようだ。

吉田拓郎さんは、この後に3人を残し上京をし1970年にデビュー。1971年に伝説となっている中津川フォークジャンボリーで岡林信康さんからバトンを引き継ぎ、1972年に「結婚しようよ」で50万枚を超えるスマッシュヒットを飛ばし。1975年には伝説の嬬恋野外コンサートで7万5000人を動員し、フォークの神様の地位に駆け上った。

吉田拓郎が友の葬式に行かない訳

WOWOWライブで歌う吉田拓郎

そんなスター街道を歩いていた吉田拓郎さんだが、体は言うことを聞いてはくれなかったようだ。

肺がんや更年期障害、うつ病、慢性気管支炎でのツアー中止、更には咽頭がんも発症した。
仲間には「俺はもうダメかもしれない」と弱気な一面を見せていたという。

昨年、広島に戻った吉田は、ザ・ダウンタウンズのメンバーと久しぶりの再会を果たした。吉田、73才の秋。バンドが最後に大会に出たあの秋から、50年が経っていた。

全員70代で、ビールや日本酒をちびちび飲みながら「ほいじゃがのー」「なに言いよるんない」といった広島弁と笑い声が2時間ほど飛び交った。

実はその日の夕食会には、「決まり事」があった。

「『いまの話はしない』というものでした。どうしても年をとって集まると、あそこが痛い、ここが悪いと体の不具合の話になりがちです。そこで夕食会では“現在の話”を禁止し、青春時代の思い出ばかり話すことにした。音楽の話はもちろん、『お前、俺らに内緒であの娘とつきおうとったんか』など、いまだから話せる女性の話でも盛り上がったようです」(前出・吉田の知人)

若々しく、力があり余って情熱的だった時期を共に過ごした仲間との思い出話は尽きず、楽しいときはあっという間に流れていった。

だが、お開きの時間が近づくにつれて、少しずつ4人の口が重くなっていった。 「もう会えないかもしれないいな」 「今夜が最後になるのかな」「これから先、われわれが顔を合わせるときが来て、それが誰かの葬式だとしたら……そんなのはイヤだ」

そこで一同が交わしたのが、「今後、お互いの葬式には行かない」という約束だった。

吉田拓郎さんにとって「ザ・ダウンタウンズ」のメンバーはかけがいのない友であり。吉田拓郎さんが東京で一人で気を張ってがんばれたのも、彼等との時代があったからでしょう。
かけがえのない友だからこそ、別れることが悲しくて受け入れられない。

最後とわかった別れの言葉を言わないためにも、「お互いの葬式には出ない」という約束をかわされたのでしょう。

吉田拓郎が背負ってきたもの

フォークのカリスマ神様の名を背負ってきた吉田拓郎さん、本当はずっと孤独だったのかもしれない。人生も終盤にさしかかり、いくつもの大病を経験し、ふと自分に残された時間を考える。そんなとき、青春を共に過ごした友の尊さを、改めて思ったのではないだろうか。

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